夏のスイスの話をしよう。マッターホルンを眺めながらの贅沢なハイキングの話。
スイスに行ってみたい、というのは母が言い出したことだ。
母も高齢でスイスへ行くのは最初で最後になるかもしれないということで、贅沢な旅行にした。列車は一等車、ホテルも五つ星、何から何まで至れり尽くせり。
といっても自分で旅程を組むのは早々に諦めて、旅行会社へ丸投げした。スイスは鉄道網が充実しているけれど、充実し過ぎていてどのチケットをどう使えば効率がいいのかさっぱりわからない。学生時代、暇な頃ならトーマスクック片手にダイヤを読んでスケジュールを立てただろう。だが忙しい社会人にそんな時間はない。
結果的に希望は全部盛り込んで、かつ無駄のない、素晴らしいツアーを組んでもらえた。あまりにも効率的で、受け取った列車のチケットをどこでどう使うのか読み解くのに時間がかかった(数日間有効の登山列車を途中下車して利用したり、と少々トリッキーだったから)。
当時イタリアで仕事をしていた姉とミラノで合流し、そこからスイスに入国した。ユーロ圏内の出入国はまったく無味乾燥だ。バスに乗っている間にしれっと国境を超える。
スイスの列車の旅は、素晴らしい体験となった。
緑の牧草地でのんびり草を食む牛や羊、地域で特色のある民家(南部はイタリアっぽいし、北部に行くといかにもドイツらしくなる)、遠くの山の頂にはまだ残る氷河、それらを観光列車の大きな窓から眺めるのはとても楽しく、眠る暇なぞなかった。
列車の座席にはヘッドホンが設置されている。名所が近づくと車内でポーンとアラームが鳴る。ガイドが始まる合図だ。それを機に乗客はいそいそとヘッドホンを装着し、あれがかの有名ななんちゃら氷河で、なんて説明を聞く。
心配ご無用、日本語のガイドもある。駅では日本語の看板もよく見た。観光大国スイスは、どの国から人が来ても対応可能というほど案内が充実していた。
電車のダイヤはとても正確で、旅行会社が組んでくれた日程だと乗り継ぎに10分ほどしかない箇所があって心配したけれど、何の不都合もなくきちんと乗り換えられた。イタリアでは考えられないことだ。時間通りに電車は来ないし、予定されたホームに着くとも限らないし。
そして、ホテルと駅と列車次第だが、長距離移動では荷物をホテルからホテルへ運んでもらえるサービスもあった(宅配便というわけではなく、乗客の列車の荷物用車両にホテルや駅のスタッフが積んでくれる)。良いホテルを取っていたのが奏功して、手ぶらで列車の旅を楽しむことができた。これぞ観光大国。どこかの日本とは大違い。
当時はまだ日本人観光客も多く、一等車の大半は日本人という日もあった。おかげで海外なのに仕事の話は伏せ字でトークしなくてはいけなかったし、隣の座席のカップルはなんだか微妙な関係性ということもつぶさにわかってあまり海外という感じがなかった。スイスの列車での不満はこれくらいだ。
スイスの旅で気に入ったのは、ハイキングコースがとても充実していることだ。
マッターホルンなど有名な山の周辺には初心者向けから上級者向けまでいろんなコースがあって、どこを歩くかガイドブックを見ながらウキウキと選べる。
年寄りがいるのでハードなコースは選ばず、登山列車で上まで移動し、緩やかな坂道を歩くというゆるゆるハイキングを何回かやった。岩場を登るなんて場面はなく、そこかしこに親切に看板が立てられた散歩道をのんびり歩くコースだ。
夏のスイスは高山植物の花が綺麗で、可憐な花越しに見る氷河の迫力とのコントラストが印象深い。登山客に動じない牛や玄妙な色合いの湖など、歩いても歩いても楽しい風景が続く。
それをまったくの混雑なしに堪能できるのだ! 渋滞を作る富士山登山とはわけが違う。
スイスでのハイキングを楽しんでしまってから、私は登山をしなくなった。どの山に行ってもあのときほど楽で素敵な道はないように思えたから。次に登山をするときは、またスイスでやりたい。
さて、このように観光は非常に楽しい国だが、食事に関しては、参った。
スイスに入ってすぐはまだイタリアの雰囲気を残していたので、食事は美味しかった。しかし、北上するにつれてドイツの雰囲気が漂うと、急に食の楽しみは低下した。
ドイツ圏も美味しいものは美味しい。パンは種類が豊富だし、チーズも間違いなく美味しいし、ソーセージも充実している。だがしかし、ほかに美味しいものは……何があったっけ?
本場スイスでチーズフォンデュを食べたのは楽しかったが「…そう何度も食べたいモノじゃないしねえ」と、一度で終わった。
そんなわけで、スイスに入って割とすぐ、日本食のお世話になった。スイスくんだりまで行って天丼を食べた。
イタリアに住んでいた姉は日本食に飢えている。パリやロンドンでは日本食レストランは珍しくもないが、食に関して保守的なローマでは日本食は滅多に食べられない。その点、観光客向けにあちこちに日本食レストランがあるスイスは天国のように感じたらしく「絶対和食がいい!」となったのだ。
スイスの天丼も美味しかった。ただ、安くはなかった。
私は海外旅行に出ると、日本食は食べない派だ。帰国すればいくらでも食べられるのに、わざわざ現地の食事の機会を放棄してまで和食を選ぶ意味がわからない。
と思うのだが、さすがにパンとチーズとソーセージで1週間余り過ごすのは苦痛だ。
天丼が美味しかったのに気を良くして、別の日は中華料理を食べに行った。安定の中華。華僑万歳。野菜はたっぷり食べられるし、炒飯や酢豚は思った通りの味で安心した。
ユングフラウヨッホではカレーを食べた。エスニックレストランにはいかにも東南アジアや南アジアの人しかいなかったので、スタッフには「カレーだけど、いいの?」と念押しされた。いいの、山の天辺で食べるソーセージとフライドポテトは、もう飽きたの。展望台ではカップラーメンを食べている人もいて、すごく美味しそうだった。
スイス旅行の最後の街はジュネーヴ。
そして食事は焼き鳥で締めた。炭火で焼く鶏肉と野菜は、最高だった。