昔の中国の話をしよう。まだ車よりも自転車が多かった頃の話。
私が最初に中国を訪れたのは20世紀末のこと。都市は西安だった。
乾いた大地の中に突如現れる城壁や鐘楼は、いかにも古代から続いている都市といった風情。大通りはアスファルトで舗装されているものの裏路地は土のままで、乾いた冬の風に煽られた砂で街の中は煙っていた。
埃っぽい街の中、往来は活発だ。
平日の昼間に、どこからそんな人が湧いたか、不思議なほど人がいる。大八車で何かを運んでいるおじさんもいれば、お尻を剥き出しにした赤ん坊を連れたお母さんもいる。自転車も多いし、車も自転車ほどではないが走っている。クラクションや人々の大声で、余計に賑やかな雰囲気だった。
大通り沿いには商店が並ぶ。小さな個人商店。
野菜や精肉を扱う店からは、ワイルドな香りが立つ。書画の道具店が混ざるのはいかにも中国らしい。開店前の食堂では、若い女の子が気怠そうに床の掃除をしている。そして日に焼けた箱が並んでいる電器店。どこのメーカーかわからないラジオやテレビやミキサー。日本ではこの手の店はすっかり見かけなくなった。
商店街を歩くと、ふと20世紀半ばの日本を思い出す。
私もそんなもの記憶にはないけれど、父や母が語る昭和の雰囲気によく似ている、と思った。両親が子どもの頃、街へ出たらこんな風に電器店のショーウィンドウを覗いて、ハイカラな電化製品を見て胸をときめかせていたんだろう。そんな様子がありありと目に浮かんだ。
そう、中国は数十年前の日本を追想できる場所だったのだ。
西安の雑踏を歩いていると、私達は注目を浴びてしまう。日本人だとすぐにバレるのだ。
綺麗な格好を避けておとなしくしているのに、何でわかってしまうのか。中国人に言わせると「地味過ぎる」とのことらしい。確かに、道ゆく人は赤とかどぎつい色の服や鞄が多い。地味な色合いの汚れてもいないコートを着ていると、現地人ではないとすぐに判別がつく。
そんなわけで、すれ違う人の多くは私達をじろじろと無遠慮に見つめてきた。芸能人にでもなった気分だ。恥ずかしくて居た堪れない。
中には「日本人!」と中国語で怒鳴って肩を叩いてくる老人もいた。
中国は、私にとって2回目の海外旅行の地だった。
なぜ敢えて中国だったかというと、大学では第二外国語で中国語を選択していて、そのクラスの仲間と中国を旅したという次第。
高校時代の恩師が中国語専攻で、漢文の授業のときに詩を中国語で朗々と吟じてくれた。
あれは「春眠不覚暁」だったか。漢文の最初の授業だったから、おそらくその詩だろう。
書き下し文にはすっかり慣れていたが、現地の音(厳密には古代と現代語中国語では異なるのだろうけれど)で美しい節回しの詩を聴くと、目の前に春の朝の空気と雨で落ちた花の香りが広がったような衝撃を受けた。その恩師の声が「イケボ」というやつで、余計に美しいひとときになった。
そんな素朴な憧れで中国語を勉強し、こうして現地まで赴いたわけだが、あいにく孟浩然や杜甫ばかりに想いを馳せるような旅ではなかった。
日本人を忌み嫌い、敵意を剥き出しにしてくる人も避けられない。
初めての中国旅行は実は楽しいばかりではなくて、前半は少し鬱々としていた。
すれ違いざまに叩かれるし、買い物をすればお釣りは投げて寄越されるし、白人が泊まるようなホテルでも英単語が通じないし、なんだか異世界に来てしまったというカルチャーショックにしてやられていた。
最初の海外旅行はハワイだった。このときは物珍しいと感じることは多々あれど、カルチャーショックはなかった。あそこはテーマパークみたいなもので観光客にはフレンドリーだし、何より日本語が通じる場面も多い。
それが、外国といっても隣の国で、ずっと友好的だったわけではないけれど共通する文化も多く、人の見た目もさほど変わるわけでもない中国で、これほどまでに「私の育った文化圏とは別の世界だ」と感じたことがショックだったのだ。
それでも若いとは逞しいもので、数日もすれば慣れてきて、西安を出て北京や上海を巡る頃には買い物のときに無言でお金を投げることも厭わなくなったし、現地の人に倣って幹線道路のど真ん中を横断したり(当時は自動車よりも自転車を避ける方が困難だった!)と、中国化していった。
都会に来ると若い日本人集団もそこまで目立たず、叩かれることもなかった。
私達は、本屋を目にしたら必ず立ち寄った。
当時日本画を習っていた私は、墨絵の見本帳をあれこれと買い込んだ。それと中国語に訳された「ドラえもん」。紙が粗悪なペラペラで、透けて裏写りしている。これも戦後貧しい時代の日本みたいだ、と思った。
上海の本屋で私達が長時間あれこれ物色していると、店員のおばさん達が面白がって「牛乳を飲んでいきなさい」と店内の小さなテーブルに牛乳瓶を出してくれた。適当に勉強しているとはいえ「niunai(牛奶)」くらいは聞き取れるのだ。牛乳瓶も昭和っぽい。もう銭湯でしか見かけないし、その銭湯も、ほとんど見ない。
おばさん達は私達が中途半端にしか中国語を理解できないと知りながらも、マシンガンみたいに話しかけてきた。おばさんのお喋り好きは世界共通だ。
ひとりがしきりに何かの単語を言ってくるけれど、私達はさっぱりわからない。そんな単語は教科書には出てこなかった。手帳に漢字で書いてもらうと「山口百恵」だった。なるほど、それは教科書には載っていない。
こうして人懐こい中国人にも助けられて、旅の後半にはカルチャーショックを克服していった。
この中国旅行中、鄧小平が死去した。
官公庁や観光地など、あちこちで半旗が掲げられた。
まだ旅行半ばだった私達はこの先の旅程に影響が出ることを心配したけれど、京劇の日程が変更されたくらいで、あとはどの施設も普通に回ることができた。
テレビのニュースでは、老女が偉大なる鄧小平の死を嘆き悲しみ、大泣きしている姿を映していた。翌日、中国の若い人に中国人は鄧小平の死が哀しいのか訊ねると、彼は肩をすくめて「人による」と答えた。
中国人も個人の集まりなのだ。当たり前だ。
最初の中国旅行で辟易したくせに、私は中国をすっかり好きになって、それから何度も旅をした。
さほど時間がかからず行ける北京と上海が中心で、行けば必ず立ち寄る食堂や本屋があった。八角の香り高い点心に舌鼓を打ち、筆や画材をあれこれ買い込んだ。
ふと気づくと、裏写りするような本は減っている。
街の様子も大きく変わった。砂埃が舞った裏路地も綺麗に舗装され、繁華街の中心部は前回来たときの面影がないほどに再開発された。スターバックスやH&Mが並んで、東京の街並みと大差ない。
いつのまにか自転車の姿はほとんど消えて、広い道路では自動車が渋滞を作っている。
北京郊外の空港から市街地まで車で移動するとき、昔は畑が広がっていた。
あれは何の畑だったんだろう。高粱だろうか。砂っぽい大気の中、延々と広がる畑を見ると、大陸の広さを感じられた。
今はずっと建物が並んでいて、北京が遊牧民の都市だった面影はどこにもない。
それを見て、私が懐かしんだ中国は消えたと感じた。
それから約20年、一度も中国の大地を踏んでいない。