花の都の話をしよう。アルノ川沿いの可憐な街の話。
フィレンツェを訪れたのは、2013年の夏だった。
長期の休みを取れる時期が限られるから仕方ないとはいえ、買い物もするつもりでヨーロッパへ行くのは、夏はお勧めしない。ヴァカンツァの真っ最中に行くと閉店してしまう店が多い。
ジノリの本拠地まで行って、シャッター越しにウィンドウを無理矢理覗き込んで指を咥えるばかりなり、なんてことになってしまう。
もっとも、昔に比べると商売っ気があるようで、夏でも飲食店は開いているところが多かったし、ジノリは駄目だったけれどフェラガモでは買い物できた。昔のイタリアの夏は、ローマでも時が止まったかのように静かになったものなのに。
フィレンツェは美しい古都だ。
ルネサンスの香りが残るような旧市街地は自動車の乗り入れが制限されていて、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の大屋根を建物の間から覗きながら、のんびりと街歩きができる。
スリに気をつけながらヴェッキオ橋の喧騒を通り抜けるもよし、サンタ・マリア・ノヴェッラ薬局で石鹸を買うもよし。
この美しい街で私が最も気に入ったのは、ウフィツィ美術館。大きなU字形の建物で、16世紀の趣を残している。
建物自体も素晴らしいが、収蔵品が素晴らしい。イタリア、とりわけフィレンツェのような古い都市は街のそこかしこに気軽に彫刻が置いてあって「ひえっ、これもミケランジェロ」「うわっ、あれはベルニーニ」と巨匠の作品がタダで無造作に見られることに恐怖すら覚えるのだが、ウフィツィ美術館の内部は恐怖を通り越して陶然となる作品群で埋め尽くされている。
アンジェリコ、リッピ、ボッティチェリ。ダ・ヴィンチ、ラファエロ、カラヴァッジオ。
教科書で見たような有名どころの絵ばかり並んでいて、美の圧力に窒息してしまいそうだ。
中でも気に入ったのは「プリマヴェーラ」と「ヴィーナス誕生」。どちらもボッティチェリの作品だ。
現在もそうなのか知らないが、私が行ったときはこの作品は同じ部屋に飾られていた記憶がある。
大きな広間の真ん中のソファに座って「プリマヴェーラ」の花のひとつひとつにうっとりし、「ヴィーナス誕生」の柔らかさに感動し、いつまでもこの空間にいたいと思いながらボッティチェリに耽溺していた。
これだけ有名な作品だというのに、誰にも邪魔されず急かされず、気が済むまで眺めていられるというのは尊いことだ。パリのルーブル美術館も、初めて行ったときは座ってゆっくり眺められることに感動した。あそこは「モナ・リザ」だけが日本の美術館の特別展のように混み合っているけれど。
絵や彫刻は、写真では物足りない。と、実物の迫力を目の当たりにする度に思う。
油絵の具の盛り方や精緻な筆の跡、なんなら額装や展示室も含めて体験すべきアトラクションだ。実物を見てこそラファエロやダ・ヴィンチの桁違いの巧さに舌を巻き、レンブラントの暗さに肝を冷やす。
美術館内部ではなんてことないが、外に出るとトスカーナの日差しが容赦なく降り注ぐ。イタリア北部とはいえ、フィレンツェも夏はとにかく暑い。
日本と違って乾燥しているから楽なようなものだけれど、汗をかかない分、焦げつくような迫力がある。水はいくらでも飲めるし、ジェラートは日向で食べていたら一瞬で融解してしまう。
そして乾燥しているといっても空気が滞っている場所ではそれなりに蒸して、教会の中庭の日陰で休憩しようと座っても慣れない湿気に辟易して、エアコンを求めて移動する羽目になった。
夏の暑さの中、街歩きができないとどうなるか。
真昼間はホテルの部屋で昼寝をすることになる。
朝からアルノ川沿いに歩いてあちらの美術館こちらの教会と歩き回るとそれだけでもう疲れて、ホテルの掃除が終わった頃に一度部屋に戻り、そのままベッドに雪崩れこむ。暑さからくる疲れと時差で深い午睡に突入だ。
そういえば、夏のシチリア島へ行ったときも毎日昼寝をした覚えがある。
あのときはお金をケチってエアコンのない部屋に泊まったから、ホテルに戻っても暑かったっけ。
けれど真夏の地中海の日差しを遮ってしまえばそこまで暑苦しくもないし、窓から抜ける海風は心地いい。
あれから10年、ホテルのエアコンはケチることがなくなって涼しい中で昼寝するようになったけれど、アルノ川を渡る風を感じられないのは少し残念だったかもしれない。
夕方、日が落ちたら再びアルノ川沿いを歩いた。
夕暮れどきになると暑さはすっと消えて、ほんのり涼しさすら立ち上る。ライトアップされたヴェッキオ橋を眺め、暑さにお構いなしにベタベタとくっつくカップルに感心する。
夕食は花ズッキーニのフリットだ。
食後にはもちろんジェラート。夜のジェラートはあっという間に溶けるということはない。